アジアのお箸

中国語・韓国語・ベトナム語・広東語が似ているので同時学習してみるブログ(東アジア漢字文化圏の言語の比較・対照)

【書評】ことばと国家(田中克彦)

1981年初版の古い本。控えめに言っても、非常に良い本である。
本書の内容をわたしなりに一言で要約するならば、この世界に存在する「正しいことば、美しいことば」と「間違ったことば、訛ったことば、劣ったことば」の違いは、単に人為的に決められているだけにすぎない、ということである。
本書は、言語についてかなり「左翼的」で「反権威的」な主張が目白押しだが、そのどれもが、核心をついていると思う。

本書で強く印象に残ったところをどんどん引用させていただく。




(pp.9-10)
 つまり、あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望によって決定されるのであって、決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない。世界の各地には、言語学の冷静な客観主義などは全く眼中に置かず、小さな小さな方言的なことばが、自分は独立の言語であるのだと主張することがある。
 たとえば、埼玉県よりまだ小さいルクセンブルクでは国民の大部分にあたる約三十万人が、ドイツ語によく似た言語、あるいはことばを母語としている。このことばは、外国人であってもドイツ語にある程度堪能であれば十分意志が通じる。だから無邪気な人がやってきて聞いたら、これはドイツ語だと思ってしまう。だからといって、あなた方の話しているのはドイツ語だと言ったら、ひどく相手の気持を傷つけることがある。かれらは、ドイツ語とははっきり別の、固有のレッツェブルギッシュを、すなわち、ルクセンブルク語を話しているのだと言い張り、ついに、初級学校の授業科目として、隣接国の言語であって自国の公用語でもあるフランス語、ドイツ語と並んで、ルクセンブルク語の授業を導入しようかというところまでこぎつけている。
 もし、言語学だけからみた尺度を、いわゆる中国語という一大方言群にあてはめるならば、漢系民族だけのなかに、二〇も三〇もの独立言語をもった独立国家を誕生させねばならないであろう。しかし、相互に会話が通じないほどへだたった言語でも、そこでは漢字という共通の文字でつながれており、意識としても、たかだか方言関係の差であるとしか感じられていない。その背景には、漢民族の一体イデオロギーが支えているからである。


(pp.33-34)
 ラテン語はさまざまな諸言語を話す人たちの上に帝国の言語として君臨し、その下の言語を見えなくさせていた。(中略)もちろんラテン語を正しく書くということは、非ラテン語母語として用いていた諸族にとってはなみ大ていのことではなかったから、かれらの日常言語の素顔が出て、じわじわとラテン語の規範を乱していった。この乱れの蓄積が、ついにはラテン語から分離した独立の言語の成立へと道をひらくことになったのである。
 ラテン語は普及していけばいくほど、日常生活のなかで多くの人に用いられれば用いられるほど、そのなかには、古典的な硬さを失った、日常語の影響を受けた形が入りこんでいく。(中略)このような変化をこうむっているために、なおももちこたえている古典ラテン語の規範からみて、ずれた方向にすすんでしまったラテン語のことを「俗ラテン語」と呼ぶ。(中略)そうすると、きちんと書ける人は、俗ラテン語を書く人たちの文法的な誤りなどをあげつらって嘲笑するのであろう。
 ところが皮肉なことに、ラテン語がくずれていくかたちを笑った「その瞬間にラテン語はとどめをさされて死んだ」のである。ことばがくずれていくのは、それが生きている証拠である。生きていくためには変化しなければならない。死んだことばは決してくずれず、乱れることがないのである。


(pp.66-68)
 文法が、ことばの表現の実際にあたって何の力もかしてくれないこと、否、文法を意識することは、かえって自由なことばの表出をそこなうものであることは、とりわけ作家が気がついていた。
 谷崎潤一郎は、「文章読本」の文章の上達法の章で、まず「文法に囚われないこと」を要件としてあげたくらいである。
   第一に申しあげたいのは、
   文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法に囚われるな。
   と云うことであります。
 (中略)母語にあっては、文法は話し手の外にあるのではなくて、話し手が内から作っていくものであるからだ。知らない言語や古語の文法は、我々にとって一方的に受けとるものであり、ただひたすらにその支配に服するためにそれを学ぶ。しかし母語の文法は、話し手みずからがその主人であり、かれはそれを絶え間なく創造し発展させているのである。だから、古い規範からみて破格だの誤りだのと呼んでいるものは、じつはかれの文法の内的進化にほかならないのである。


(pp.70-73)
 文法は法典であり、規則であり、そこに指定された以外の可能性をぬりつぶしていく言語警察制度を自らのなかに作り上げる作業である。したがって、このような精神のはたらきが、創作のいとなみとは真反対のところにあることはすぐに理解できる。アンドレ・マルチネは、「文法家どもがことばを殺す」というはげしい題名の論文を書いている。
 (中略)たえず変化することによって、新しい歴史的状況(意識の変化)に適応していこうとすることばの性質に反して、文法とは、真の意味におけることばでないことばを作る作業であることがわかる。すなわち、文法はその本性において、ことばの外に立ってことばを支配する道具である。ことばは現実であるのに対して文法は観念であり規範である。俗語が文法をあてがわれたとたんに、それは、何よりも地域と時代をこえて、ことばの恒常性を保つための装置であるという第二の性格をあらわにしてくる。(中略)
 普通の話し手は、文法のなかに生きた話しことばの用法をついうっかりもち込んでしまって、大いにその規範をゆるがすと、言語エリートはその乱れを嘆いて、話しことばを文法に従わせようとする。文法の真骨頂が発揮されるのはこのときである。文法の安定と不変を願う気持が、それを正しいときめ、それからの逸脱を誤りとするから、言語の変化はいつでも誤りであって、正しい変化というものは論理的にあり得なくなるであろう。そのことはつまり、言語に関するかぎり進化という概念はあり得ないということになる。




(pp.79-82)
 今日、フランスの国土の上に、フランス語以外のいくつもの言語(方言ではなく)が話されているという事実を、大学のフランス語の授業でも教えてくれることはほとんどない。それは技術としてのフランス語を教えることに主眼が置かれているからであるが、そのことは意図せずとも、非フランス語を母語とする多数のフランス国民がいることを忘れさせ、無視することに役立っている。
 図から見られるように、その西端にはブルトン語が、スペインとの国境地帯にはバスク語カタロニア語が、ベルギーとの国境にはフラマン語が、アルザスとロレーヌ(ドイツ語ではエルザスとロートリンゲン)にはドイツ語に似たことばが、また、全土の三分の一にあたる南部にはプロヴァンス語などを含むオック諸語が話されている。島であるために見落とされやすいが、コルシカの言語も忘れてはならない。これらの言語を母語にする者はフランス国民のほぼ四分の一に達するものと推定される。(中略)
 (中略)あるブルトン人は自分の子供にブルトン語の名前をつけて出生届けを出した。役所はその受理を拒否した。子供にブルトン語の名前をつけることは法律が禁じているからである。


(pp.89-91)
 ヨーロッパ諸語の歴史のなかでも、フランス語は、ラテン語の権威をくずすために、国王が絶対的権力を発動してそれにのぞんだ、いちじるしい例を提供している。フランソワ一世が、一五三九年に発布した、ヴィレール・コトレの勅令と呼ばれるのがそれである。その一一〇と一一一条は、フランス国内の公的生活では、王の言語のみが国家の言語であるとして、「すべての裁判や公務において」「今後は当事者双方に対して」「フランスの母語だけで、発音され、記録され、伝えられるべき」ことを決定したのである。(中略)
 この勅令の意味するところは、母語が国家の言語へと転化する過程で何が生じなければならないかを示しているので、よく味わって考えてみる必要がある。
 この勅令は、まず、「母のことば」を公けの地位につけることでその権威を確立したうえで、ラテン語に致命的な打撃を与えることをめざしていた。(中略)しかし、この「母のことば」が指していたのは「フランスの母のことば」つまりオイルの母たちのことばだけであったために、オックをはじめ、その他の母たちのことばは法律によって禁じられる結果となった。つまりこの勅令は、ラテン語を排除しただけでなく、フランス語という俗語が公けの言語になるために、それと競合する他の俗語たちにとどめをさしたのである。(中略)
 この決定によって、一五四〇年以降、フランスにおけるあらゆる公的文章からオック語が姿を消した。今日のフランスにみる、一切の地域主義的発想の消滅と、徹底した中央集権主義の原基はこのとき置かれたのである。


(pp.157-158)
 (前略)考えてみれば奇妙なことだが、ことばは、他のもう一つのことばに近ければ近いほど、すなわちもう一つの言語の聞き手に理解されればされるほどさげすまれるようになっている。方言がさげすまれるのは、それがある程度はわかるからである。(中略)
 人は、たとえばエスキモー語やバスク語を聞いて笑おうとはしなくとも、首都の言語エリートは、どこかの方言を耳にして、「これが日本語であろうか。聞いている方が恥ずかしくなってしまう」などと感じるのである。(中略)
 あるイディオム(ことば)がさげすまれるのは、それがより上位に立つとされる国語や標準語に依存しているために、中心や標準価値からはずれているという感覚のせいである。外れていれば、そのこと自体によってそのことばは誤っており、純粋ではなくてくずれている。標準は価値の独占によって、いつでも他の非標準を差別する。だから、そのことばが「方言」とされるかぎり、すなわち、たがいに理解しあえる、よく似た言語が近くにあるかぎり、条件さえあればつねにさげすまれ、嘲笑されるようになっている。
 方言は、正しい国語だの標準語だのと手をきって、独自の価値をつくりあげて、そこから離れれば離れるほど、いっそう純粋な独自性を獲得することができる。




以上、引用ばかりさせていただいたが、非常に的を射た内容ばかりだと思う。わたしは高校生の頃、色々な言語や方言の分布図をみたり、いわゆる「日本語の乱れ」の議論を見聞きしながら、自分なりに考えて、「言語には規範的なものはあっても、絶対的なものはない」という持論を持つようになった。おっさんになった今、本書を読んで、高校生のときの自分がたどりついた持論は間違っていなかったのだと再確認することができた。